フードロスなんてものがありますが

 今のフリーター生活含め学生時代に経験してきたアルバイトのほとんどが飲食店だった。

 さらにそのほとんどがキッチン業務で調理しているときもあれば洗い場に入ることもある。

 

どの店でもそうだったが洗い場なんかにいるとかなりの食べ残しが出てくる。

中には残飯なんていえないほどほとんど手つかずのまま食器がさがってくることもある。

また時折ではあるが注文を受け調理し料理を出す直前もしくは運んだタイミングで「やっぱりこれやめてこっちにしてください」なんてこともあったりする。

その場合は作り直しをするわけだが先に作ったものはどうなるかというともちろん廃棄である。

 

その度に思うのはもったいないである

「ほとんど手つかず」や「直前でのオーダー変更」に関しては憤りを覚えることもある。

 

そう、今回の記事は

食いもんむだにすんじゃねーよ!ふざけんな!

って話と「じゃあなんでそんなことなるの?」っていう考察記事です。

 

タイトルにも書いてあり社会問題の一つとして挙げられているがそもそもフードロスとはなにか。

フードロス(食費ロス)とは、まだ食べられるのに廃棄される食品のこと。

日本では、年間2,759万トンの食品廃棄物がありそのうちまだ食べられるのに廃棄される食品、いわゆる食品ロスは634万トン。これは世界中で飢餓に苦しむ人々に向けた世界の食糧援助量(平成29年)の1.7倍に相当する。(消費者庁HPより)

とのこと。

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なんでこんなことが起こるのだろうか。

もちろん単純に思ったより量が多くて食べきれないとかってこともあるだろう。

飲食店での食事なんかはあらかじめどのくらいの量が来るかわからないことが多いので「食べられると思って頼んだけどいざ料理が来たら思った以上の量だった」なんてこともあるかもしれない。

それだけなら「もったいないな・・・」と思うだけでこんな記事にすることははなかったと思う。

しかし何度も出すが「全くの手つかず」や「ぎりぎりでの注文の変更」なんかは話が違うだろう。

 

こういった行動になる背景として

「①日本は食べるものにあふれていること」

「②食品、食材を『モノ』として考えている」というのがあるのではないだろうか。

 

まず①につてい

現代の日本において(一概にそうとは言い切れないだろうが)よほどのことがなければ食べることに困ることはないだろう。つまり食料が飽和して食べ物に対する希少価値が極端に低いのだ。希少価値が低いと扱いが雑になったりそれこそ「もったいない」という意識が薄れていく。だからまだ食べられるはずのものを世界食糧援助量を大きく上回る量を 容易に残し捨てることができるのではないだろうか。

 

次に②について(個人的にこっちが本題というか大事)

何年か前に「プロフェッショナル」という番組で猟師の方が取り上げられた回があったらしくそれがTwitter上で批判込みで流れてきたことがある。

番組のワンシーンの画像を切り取ってこんなことが書かれていた。

猟師なんて動物殺して楽しんでるだけのサイコキラー

動物がかわいそう

趣味で動物殺してるような奴(ら)を取り上げるな

などなど

それに対して猟師の方が何をしているかを説いた返信が返されていることもあった。

前述した内容もかなりものだったがさらに衝撃だったのはこれに対しての返信にこんなものがあった。

肉なんてスーパー行ったら買えるだろ。わざわざ殺す必要ない

 

愕然とした 。

何を言っているんだとあきれたのを覚えている。

 

狩猟のメインとなる対象は熊、鹿、イノシシなどのいわゆる「ジビエ」とされるものが多く一般に口にする牛、豚、鳥とは確かに違うがこの時批判していた人達の多くはそのスーパーで売られている肉は動物を殺すことでできていることがわかっていないかのようだった。

 

もちろんこれは極端な例ではあるが冒頭で書いたような平然と食べ物を残す人たちは

食べ物=生き物ということを知ってはいても本当の意味で理解をしていないのではないだろうか。

 

廃棄に対して「もったいない」と書いたがこれは食材がもったいないということではない。

がもったいないのだ。

 

またこの「命」食材となった動植物に限ったことではない。

一つの料理、食事にあたって実は大きく3つの命が関わっている。

1つ目はここまで書いてきた「食材となった動植物の命

2つ目は農場や牧場、加工場で働いている「生産者の命

3つ目は食材を調理する「調理者の命

 

1つ目に関してはここまで書いた来たので十分理解していただけていると思うので省略。

では2つ目3つ目はどういうことか。

生産過程においても調理過程においてもそれをする人たちは自分たちの時間を使っているわけだ。

寿命というものが本当にあるのかはわからないがあると仮定したときその寿命(時間)の一部を使って生産、調理をしているのだ。

「それが仕事なんだから」と言われればそれまでかもしれないがその人たちがその役割を担ってくれているおかげで食事にありつけているのも事実であり特に生産者の方々についていえば極論「自分たちの分だけ作っていれば生きていくことに困らないにもかかわらずそれを分けてくれているのだ。

そう考えると「仕事だから」と一蹴するわけにはいかないのではないだろうか。

 

また調理者はなにも飲食店で働く人だけを指したものではない。

家でご飯を作ってくれる親、兄弟、祖父母など仕事としてやっているわけではない人も含まれる。これを「親なんだから当たり前」とでもいうのだろうか。

もしそういう人がいるのであれば考えを改めるべきだ。

理由は先のものと同じ。「本当はやらなくてもいいことをやってくれている」のだから。

 

ご飯が食べたければ自分の分だけ作って食べれば済む話なのに自分以外の家族の分を自分の時間を使ってまで作ってくれる。他にもやりたいこと、やらなきゃいけないこともあるはずなのに。

 

つまり食べ物を無駄にするということは人の厚意を無駄にすることなのだ。

 

食事の無駄は社会問題だから何とかしなきゃいけないものかもしれないがそもそも問題として挙がるようなことがあってはいけないものなのではないだろうか。

 

「いただきます」「ごちそうさま」という言葉が日本にはある。

これらは食(命)に対する敬意と感謝を込めた言葉だ。

子どものころは学校言っていたかもしれないが大人になった今この言葉を食事の前後に口にする人は一体どれだけいるだろう。

食事とはできて当たり前のことではないということをもっとちゃんと考えるべきなのではないだろうか。

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